●ゆかりの方々より(海外)
少林寺拳法ヨーロッパ総局長 青坂寛先生
森先生 追憶の記
出逢いは一九七三年の夏。前々からお互いに知ってはいたが、より友好を深めたのはこの年、ことのおこり は口喧嘩だった。私はその夏、パリより日本へ帰国し、本山少林寺に寝泊りしていた。みなが集まり雑談する小さな畳のしいた部屋があった。森先生が云うには近々、沢村を本部につれて来るとの話をしていた。「沢村」古い人たちは知っていると思う当時のキックボクシングのスターである。日本大学の出身であり、私の二、三年先輩にあたる人である。私は沢村氏より森先生に興味を持ち、聞き耳をたてていた。この人にあの沢村と何のつながりがあるのだろうかと・・・。いろいろと質問してみた。
そして、ちょっとうるさくなった森先生は「青坂、お前はねほりはほり うるせえな。」と云った。私も連日の練習と暑さとで疲れていた。カチンときた。云いかえした・・・「先生、うるせえとはどう言う事ですか、あなたに興味がなければこんな話はしませんよ。」私の若さがそう言わせた。森先生はにらみつけて来た。そして私もにらみ返した・・・。仲裁が入った。京都の森川先生だった。「森先生、青坂先生の話を聞いてやりなさいよ。」森川先生はニコニコと穏やかな顔をして云われた。森先生の顔がいつもの顔にかえった。ニコと笑った。「青坂、俺が悪かった。話してやろう。」そして沢村氏とのいきさつを話してくれた。
森先生はその時の本部での合宿を終わり神戸に帰られる時にわざわざ私の所へよって来てくれた。「青坂、頑張れよ。そのうち俺もパリに応援にみんなで行ってやるよ。」私は心だけ戴くつもりで聞いた。当時なにぶんにもフランス パリは遠すぎた。開祖がヨーロッパに視察の旅に出られた時など何百人の見送りが出た。そんな時代だった。二年後、おもわぬ連絡が来た。「青坂、お前のところへ行く。」電話に出た私に遠くで小さくそれでもはっきりとした声がはずんできこえた。
その森先生が他界された。本部WSKOの平田さんから知らされた。涙がとめどもなくながれた。心やさしい、しつこいぐらい情のこい人だった。技もならった、特別にかわいがられもした。私の最初のむすめをだっこし、神戸の街を歩き廻ってくれた先生の姿を思い出す。
パリに来たときは当時の私の三畳の部屋にも来てくれた。刀ひとふり、セビロ一着、クツ ゲタそれぞれ一足、ベッド。そして部屋の前にマキワラ、何もない簡素な生活、気持ちいいくらい何もない生活だった。金はかなりの額を持って来ていた。ただ、使えばなくなる。それだけの話である。将来事なした暁もこんな生活をしようとは思っていない。森先生には、こしかける場所もないので私のベッドへすわっていただいた。私は床にすわって話をした。森先生は泣いてくれた。何を話したか、あまりおぼえていない、ただ涙をポロポロとながしてくれたのを思いだす。先生は日本へ帰国され弟子たちに話をしたと云う。
「パリで武蔵に逢った」と・・・。
私はそれを聞いてはずかしかった。別に苦しい生活ではなかった、好きでやっている事だったからである。
二〇〇一年のパリでの国際大会は会いに行くと云ってくれた。「お前と水野に会いに行く」と早くから手をあげてくれた。本部の合宿でも大勢の拳士へ「青坂の所へ一緒に行こう」といつも云ってくれていたらしい。そのおかげか、日本からパリへは五百人と云うとんでもない人の大移動となった。大会はスバラシイと絶賛された、しかし森先生は来仏は出来なかった。
膵臓ガン・・・そしてなくなられた。
人は、彼から技を習いましたと云う、しかし私は技より心をならった様な気がする。
心のやさしさ、そしてあのしつこいぐらいの情。今こうして彼、森先生との楽しい日々を思い出し、涙が流れてとまらず・・・昔、先生にだっこしてもらったむすめが今二十二才。
彼女の「アパートへパパ帰るよ」との声がする。みおくる私に彼女はけげんそうな顔で私を見ている。涙をかくし彼女をみおくる。「パパ、サヨウナラ」 「車に気をつけなさいよ」そして又、なみだ流れてやまず。
サヨウナラ 森道基先生・・・サヨウナラ。 <パリにて 記>
英国少林寺拳法連盟会長 水野為男先生
森 道基 先生の思い出
長年師と仰いで来た森道基先生が他界された、近年森先生のみならず開祖から直接指導を受けた先生方の高齢化に伴ないこのような残念なニュースが続いている。
圧法、整法の名人だった坂東先生、少林寺拳法の生きた教範とまで言われた梶原先生、そして今度は柔法の森道基、少林寺は言うに及ばず他武道からも尊敬を集めた少林寺が誇れる森先生である。
これら少林寺に有っては珠玉の光を放つ先生達である、これらの先生にはよくご指導いただいたが、今となってはその体験が大変貴重な経験として残っている。
特に森先生との出会いは今から36年前にさかのぼる、名古屋で少林寺拳法をはじめた私はその年2段を受験した、当時の記憶でも柔法の達人と呼ばれているすごい先生が来る、と噂だった事を思い出す、考えてみれば森先生の柔法はその頃から有名だった事になる。
この時の昇段試験は最悪だった、試験官である森先生からは何度もやり直しをさせられた、結果は合格だったがおそらくお情けで合格させてくれたのであろうと考えていた。
20年以上も経ったあるとき先生にそのときの試験のことを聞いてみた、先生は合格させようと思う拳士にはいつもあのときのように厳しい試験をする、と言う事だった。
私が英国へ渡ったと言う事もあり、森先生は特に目をかけてくれた、先生自身も四国から神戸へ出た経緯があり、そして又体格も現在の若い人達の基準からすれば小さい方である、そんな苦労の経験が海外で大きな外国人の拳士達を相手に指導する私の姿が先生の体験とダブったのかもしれない。
あるときBSKF(英国連盟)で森先生をお招きした、英国連盟の拳士は数多く先生の道場でお世話になっている、そんなお礼も込めてお招きしたのである。
ちょうどその年は1月に阪神淡路大震災があった年である、先生ご自身の家も被害に遭われおそらく今度の機会は無理だろうと思っていた、そんな心配もよそに先生は予定通りロンドンにやってきた、先生に日本でお世話になった拳士を中心にキプロス島で合宿をする事になった、10数人が参加したこの合宿は技の練習が午前中、午後からは観光と言う計画の言ってみればホリデー合宿のような企画だった。
森先生にもこの事は充分説明してあったのだが、いざ練習が始まってみるとその技の魅力に全員が取り付かれ、朝の9時から始まった練習が昼の12時を過ぎても終わらない、腹が空いたなと思ったときにはすでに午後の3時、4時と言う時間の経ち方であった。
この現象は初日に限らず一週間最後まで続いた、拳士も先生の技に取り付かれたように練習を止めない、私は森先生の年齢から体調が気になっていた、しかし先生も彼らの熱心な様子に応えようとやめようとしない、気が付くと午後の4時、毎日がこの繰り返しであった。
地球の裏側まで来ても観光を楽しむどころかこの有様である、先生の少林寺拳法に対する姿勢は終始一貫していた、少林寺拳法に対する強い思い入れ、そして熱い情熱、それらを時間が有ると我々に説いた、この時参加した拳士はもとより少林寺の好きな連中ばかりである、そんなわけでホリデー合宿だった予定はみごと少林寺拳法の集中講座と呼ぶにふさわしい合宿に変身していた。
今一つの思い出は、1999年英国連盟25周年の年の事である、この年森先生は本部から派遣された他の指導員と共にブラジルを先に指導され、その後ロンドンに入られた。
第三回のヨーロッパ大会と英国連盟の25周年記念大会が同時に催された、この年はポルトガルも同じく25周年であり、本部からの指導員と我々も一緒にお祝いすべくポルトガルへ向かった。
ポルトガルで行われた講習会でも森先生の技術指導は多くの拳士の関心を集めたことは言うまでも無い、そんな中ポルトガル連盟のカルロス会長(当時)が森先生の柔法に感嘆し、連盟で一番力の強い大きな拳士を、いとも簡単に先生が投げるのを見て『マジック!』と呼んでいた事を思い出す。
先生一行がリスボンを去る日、カルロス会長は涙をいっぱい溜めて、『先生又来て下さい』と言っていた事が強く印象に残っている、その思いは私も等しくするところであった、残念ながら今となっては二度と森先生をロンドンやリスボンにお招きする事は出来なくなった、あまりにも素晴らしい先生の柔法の技にともすれば目を奪われやすいが、私が最も強く森先生から学んだ事は、少林寺拳法に対する情熱と真摯な技に対する取り組みであった、そして先生の技はいつも進化していた、先生が最後に残された三角技法はそのエッセンスであると思う、今生前森先生の語った言葉を思い出している、『開祖だから出来る!、森道基だから出来るでは少林寺を習う意味が無い、誰でも技は出来るのだ!』。
少林寺を学ぶ拳士が普遍的に上達する方法それが三角技法である、先生が人生をかけて到達し我々に残してくれたこの三角技法と言う方程式を私も拳士に伝えたいと思う。
そして少林寺拳法に対する熱い思い、これが森先生から受けた教えの最高の財産として私の心に残っている。合掌
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